昭和39年11月29日 朝の御理解
ここ2、3日私、甘木の初代の安武松太郎先生の、御伝記をほんとに( ? )ですけれども、読ませていただいておるんですが、同じ人間、同じ変わりのない、どこと別に変わりのない一人の人間の信心によってですたい、どうしてああいう、大きな、偉大なおかげが、甘木を中心にして、頂かれなさったかと、いう事を私、思うてみるんですね。大した事だと。
御一代で、あれだけの大きな教会がたち、あれだけ沢山な、教え子ができられて、それを私はあの、どういう御信心から、ああいうものが生まれてきたであろうかということ。私、そこんところを探求しなければ、例えば御伝記を読ませていただいても値打ちはないと思う。また椛目に通うてみえられましても、なら、椛目の大坪という人の信心のどこから、現在のような、おかげ、御ひれいというものがあるかと。
それはもう、甘木あたりの比では御座いませんのですけれども、確かにこの生き生きとした神様の働きをです、椛目のお広前に感じるならばです、そういう生き生きしたひれいというものが、なら、大坪のどこから、生まれてくるかということを、探求なさならければ、そこを体得なさならければ、そこを基調としたところの、信心でなかならければ、いけないと、私は思うのですね。
御伝記の中に、ご自分の御述懐をなさったことやら、書き残されたものやら、または、教え子たちが受けた教えというようなものが、いっぱい、その、御書の中に、あるんですが、それこそ、昼夜をわかたぬところの、信心修行というか、御精進というものが、ほんとに私どもが、真似のできん様な御修行をやはりなさっておられますですね。御用に至っては、もう、いつも兵隊が戦地に行く、もう、戦死するかも分からん、というお気持ちだと言うておられますですねえ。
そのくらいな御用ができられる。しかも夜昼わかたぬ御精進と。そういう様な事だけが、私原因ではないと思うんです。例えば御用が出来る御用が出来られた、それでおかげを受けられたという人は沢山あるんですけれども、ただあの御用だけではない。というて、なら昼夜わかたぬ程の、信心修行がああいう結実といわばああいう、大きな実りということになったのかというと、それだけでもない。ね。
結局はあの命がけで、御用でもさせて貰わなければ、おられないというその元があった。昼夜をわかたぬ程の、精進をさせてもらわなければおられないほどの、元があったということ。その元のところが、どう言う所であるかと言う事。甘木の先生の方からま私のその、別に接して教えを頂いたわけじゃ御座いませんから、分かりませんけれども、甘木の初代のどこに、ああいう偉大なおかげを頂けれる元があったかと。
それは、昼夜わかたぬ御精進であり、同時に命がけ、いわゆる兵隊が戦地に赴くときの、いわば戦死するかもわからんと、戦死を覚悟での、御用ぶりというものがです、あの甘木を、甘木の信心と。あの当時ほんとに日本一と言われた甘木の信心が生まれたと。それがですね、例えばその精進だけなら沢山の人がしとるんですよ。ある意味合いでは。そりゃ金光様の教師にでもなるからにはです、そりゃ私ども知っておる。
その昔からの先生方の、お話なんかを聞いてみますとです、それこそやはり命がけの修行をしておられますです。また御用といえばほんとに、これは善導寺の初代なんかの場合だってですね、ほんとにやはり命がけでもう、御用を頂いておられるのです。ね。にもかかわらず、ならどこに、あれだけの大きな差が、できたかということ。私はとっても甘木の初代の信心はですね。
天地の親神様の天地の大恩の感得、という事だと思いますね。もう木の葉一枚の中、紙切れ一つの中からでもです、天地の親神様のこの御恩徳というものを、感じ取っておられた、ということだと思いますね。もう一すくいの水にでも神様のお働きというものを、実感しておられたということですね。例えば梅の花なら梅の花をご覧になってもです、ここまでに至るまでの、天地の親神様のお働きというものを思われたらです。
その神様の働きに対して、( ? )するところの信心がなさならければ、相すまんという程の、実感的な神様を、天地のご恩徳を感じておられたということですね。私、他の誰かと違うのはそこだと思う。それは丁度教祖の神様が『畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ』、とこう神様の中を分けて通る様な実感、教祖の実感は。
神様はその位の実感的なものに感じておられた、それなのにです甘木の初代は天地の御恩徳ということに対してです、天地のお恵みというものに対してです、そのくらい強烈な天地の働きというものを、直に五体に感じられた心に感じられた。ね、それがあの精進に、駆り立てられなさったんじゃないかと。その御恩徳にお応え申しあげる、と言う事があの命がけの御用になってみえたのではないかと言う事を私は感じます。
おかげを頂かんならんけん御用したと、どうでもこうでもおかげ頂かんならんから、あの精進したと言う様なものではなかったと言う事なんです。ね、昼夜分かたず例えば水行断食と、例えばなら表行のうえにおいてもです、様々な行をする人沢山あります。おそらく甘木の初代なんかもなさったに違い御座いません。それが是を助けて貰わんならん、これを頂かんならんから、と言った様なものではなかったと言う事なんです。
御用すれば助かる御用すれば徳が受けられる、だから同じ御用でもそういうものがなかったということなんです。天地の大恩を感得され天地のお恵みに対する所の、神恩報謝の思いというものがです、もう誰よりもかれよりもお強うあられたと言う事です。その天地の大恩に対してです、こう精進しなければおられんのでありこう、御用させて貰わなければおられないというところに、私はあるんだとこう思うんです。
天地の大恩をあそこまで、少々の御信心によってこの、感得された方はほんとに、まあ珍しいと思いますね。私ども理屈の上では知っておるけれども、それだけの働きになってない私どもの場合は。天地の親神様のお恵み、天理の親神様のご恩徳天地の親神様の、私どもに思いをかけて下さるその思いに対してです、応えまつろうとする働きに、私どもの場合なってないということ。駆り立てられていないということ。ね、
御用もおかげも頂かんならんから、精進もおかげを頂かんならんから、と言う所に例えば私どもの精進とか、御用とかというものがあるとするならば、ここんところをほんとに、もっと変わらなければいけないということですね。(毎度参りごとあるけれど?)というお参りでは、だからとにその根本的にです、ところに触れてないと言う事です。甘木なんかはそこのところを、根本的なところに触れておられたということです。
ですから例えばあのような御信心ができられた。徳者という者はお徳を受けられたという者は、または人から神様の様な人じゃと言われる様な人は、例え飼い犬から手を噛まれてもです自分の不徳として、神様に詫びていくという様なご理解が残っております。例えば飼い犬に、自分のところに飼うておる犬に、手を噛まれる様なことがあってもです、どうした恩知らずだろうかとは仰っていない、ということです、ね。
自分の不徳としてです、神様にお詫び抜いておられるということです。昨日竹葉会の例会日で御座いました。いわゆる若い嫁さん達ばかりの集いなんです。私いつも久留米の光橋先生を中心で、御用頂いて下さいますから、私はもうほとんど顔出しを致しません。昨日は、( ? )ばかりでしたけれども、皆さん仲間入りさせてもらって、話を聞かせてもらった。私はもうそのもうここ何ヶ月かでしょうかね。
4、5回御無礼しておる間に、皆さんの信心の進んでおられるのに驚きました。これ皆さんのところの若い嫁さん達を、もどうでもあの会に出席させられたら、ああ言う様な風に、おかげが受けられると言う事を私はほんとに、感じてからこれあなた方はちっと、月次祭のたんびに、その、沢山ここに若い嫁さん達おられるのですから、ね、竹葉会今どうですか十何名かぐらいでしょう。もう殆ど全員集まっておられました。
もう夕方、お下がりからでも、ちょっとその顔出しだけしな、というふうで2,3人また、見えられた方たちもあった。それがその会がそういう一つの魅力を持っていきよるからなんですよやはり。私ほんと一つの驚きでしたですね。あの若い嫁さん達がああいう様なふうにして信心を、進めておるということは、ほんとに知りませんでした。もう椛目で沢山の会がありますけれども、まあこの会が一番、いうならつまらんかのように思うてました。ところがどうしてどうして。
もう嫁さん達の場合にはですね、もう実際、もう実際問題に取り組んでるですもんね。主人との問題、親姑との問題、もうですからもう真剣なんです。主人がこうである、親がこうであると。ね、そういえば最近あの、最近というか昨日私お話頂きながら、感じたことはですね、昨日、おとといでしたかね、2,3日前の晩のご理解の中に頂いておりましたあの、『昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しまさせて頂く』そういうような状態にこちらがならなければ、馬鹿らしいって言うておられますですね、皆。
主人がああだからと、こういうふうにしたり、姑がああだからというてその、腹ん立ったり、というなことでは馬鹿らしいっち。問題は自分自身が助からなければ駄目だっち。昨日( ? )いっちょん忘れんといったようなものでは、自分は助からんっち。そしてその、そういう風にしぼるところがですね、だから2日3日もかかるような場合もあるけれども、結局ぎりぎりは、神愛だ、という事なんです。
神愛の現われだと。そして、私共をやはり鍛えて下さるための、お働き以外にないというところに、いうならその話が、焦点が置かれておるという事ですね。ほんとにもう電気のつくくらいまで、熱心にそのお話をもうとにかく、やめられないほどにその、めいめいお話が出るんですね。そして私は思うのです。甘木も初代のご信心と、どうしてああいう様な偉大なですか、お働きというものが出来られたかと。
次の御理解にです、初代はこう言うておられます。御教えを頂いて、天地の御恩徳、天地の道理を解らせてもろうて、そのみ教えが自分の血に肉になる。そこがどういう事になるかと、信心が教えというものが、血に肉になってまいりますとです、昨日を忘れて今日を喜ばしてもらってです、明日は楽しませてもらうということ。ね。いわゆる神様を信じる力と。力とは神様を信じる力と。
力を分かれば分かるほど、自分の心の中には一年一年有難とうなっていくというものが育つということ。竹葉会の方たちが言うておられるのはです、問題は私自身が有難うならなければ馬鹿らしかということ。誰がなんと言うても、かれがこう言うてもです、それをいちいち気に病んでおって自分が、このごろは実にその有難い。例えばあの石井さんのところの薫さんなんかが発表しておることなんか、実にすばらしいですね。
今はできておるがあの遅く帰ってくるお風呂入んならん、自分で焚かんならんもうそれが当たり前のように思うておった。もう今日は、もうおかげ頂いて体くたくたになった。「おばあちゃんすいません、ちょっと下ば燃やしてください。」っちもう今はざっくばらんに言えれる、この頃の自分だ、と言うておられるです。したらそのおばあちゃんが喜んでから、「はいはぁい」っち言うてからその、沸かすようになるち。
今までかつてない、その、おかげだというて言うておるんですね。自分の心が有難いのです。自分の心に何にもその、こう、あれが無いわけなんですね。ですからそれが、さっくりとして言えれるっちいうわけなんです。したらおばあちゃんもそれを喜んで、この親だから、姑だから嫁だから、とったようなものが段々こう、無くなっていきよるということです。問題は、自分自身が、だから助からなきゃいけん。
もういつ昨日言われたことを忘れた、忘れられんっと言った様なものがある時には、家の問題はないちいうこと。自分自身が有難くならなきゃだめだと。それ神様をだんだん信じる力ができてきたからだというふうに、結んだ話をしておられるですね。いわゆる教えが血になり肉になり、昨日のことを忘れて、今日を本気で喜ばせてもらう。だからこの調子でいけば明日ではなくて、この調子でいけばうちの子供達が。
私のこの信心を見上げてくれるに違いない、そんなふうにも言うておられます。明日を楽しんでおられるわけなんです。それは教えが血になり肉になり、いうならなっていきよるからなんです。ね、甘木の親先生もそこを言うておられます。教えが血になり肉になりっちて、いくということ。そしてその血になり肉になりした、その信心をもってです、お役に立たせて頂こうここが、先生のちょっとずば抜けたとこですね。
み教えの。ただ教えが血になり肉になっただけじゃいかん。それが次の働きになっていかなければ、その働きそのものが、神様の御機感にかなう、お喜びいただけるような、御用にもなりゃ、精進にもなるということなんです。ね、教えが、天地のご恩徳が身につけばつくほどです、精進しなければおられんのであり、お役に立つところの働きに、なってこられなければおられない、というところに。
甘木の信心が私あったとこうま推察されるのです。そしてひきかえ椛目の信心を思うてみるのです。若い嫁さん達がです、例えば焦点をどの様なものでも神愛、神の愛情の表現であるというふうに感得していく事に、いわば努めておられると言う事。そこに信心が血になり肉になり、そしてあるいは次の働きになって来る所に、私はこれは甘木にも劣らぬようなおかげになってくるんじゃないかという風に感じるのです。
おかげを頂かんならんから信心しよると、おかげを頂かんならんから御用頂きよると、といったようなものではなくてです、神愛の感得なのである。ね。その神愛、神愛を、私どもの信心に、血に肉にしていっておるということなんです。ね。神愛を思えば思うほどです、精進しなければおられないのであり。神愛を感じれば感じるほど、お役に立たせてもらわなければおられんのであり。
神愛を思えば思うほど、御用させてもらわなければおられない、と言う様な事に椛目の信心はなるのじゃないかと思うのですよ。ですから皆さんの信心の根本的な所がです、そこからお参りそこから、御用と言う事に、なっておるかどうかと言う事を、確かめてみて、ただ御用だけならばただ精進だけならば、どこの誰さんでも、どこの何々先生でも、一通りのことはしておられるのだった、ということなんですよ
。根本的なところに触れておらなければいけない。その神愛をです、自分が子供を思う、ね、子供を持ってみて合点せろ、と仰るようなそういう実感を持って、その神愛を感じれれるところに、だんだん、進んでいかなければいけない。甘木の親先生が、天地の御恩徳をです、教祖の神様も、神の中を分けて通るようなものじゃ。それは肥やしをかけておっても道を歩いておってもその実感を、なさった様にです。
神愛の実感から椛目の信心がそこにを基調としてです、ね、信心の初めにも御用に対する内容もです、育っていく所の信心で、なからなければならんと言う様な事を私は思います。甘木の信心のそれは私どもの、先生を知りもしないで、言う事はまだ違うかもしれません。けれどもそうではないかと私は感じると同時に昨日の竹葉会の中から、方達の話の中からです、そう言った所を感じて、そんな風に私は思うたんです。
だから、物事、何事でもです、枝葉の立つところだけではなくて、その根本的なところから、分かって信心が進められなければです、それは丁度、砂上に楼閣立てていくようなものであるということ。ね、根本的なところから、信心を、分からせて頂かなきゃならんということですね。
(終わり)